嫁が島物語(3)


 正月四日は前の晩から番頭さんが「明日は奥と新年の挨拶せにゃならんけん、みんな綺麗に化粧して、おしきせも一番上等のを着て、奥座敷でお膳が出るけんな。」と告げられた。女中たちは「わあっ」と声をあげた。誰もが若旦那の噂を気にしていた。いつもならただ正月の顔合わせだったが、明日の顔合わせは大旦那と女中との顔合わせだけではなさそうだ。「どうも若旦那は店の誰か気に入った者がおるんじゃないか」と番頭さんがとくと目を光らせているらしい、と女中たちは噂していた。
 正月四日は、形ばかりの仕出しのお膳を前にずらっと顔が揃うと、大番頭さんの挨拶で宴は始められた。大旦那は若い女中さんを見比べていたが、女中頭をそっと呼んで「うちの女ごしはこれだけかえ」と言った。女中頭は「はえ」と答えたが「ちょっと待ってごしなはえ」てって頭数をしらべはじめて、ふと気がついた。「大旦那さんすんません、忘れちょった。ちびさんのこと忘れちょった。すぐにつれてきますけん。」「ちびさんって、あのいつも真っ黒に煤けた手洗桶の子か」「はい」。女中頭は大急ぎでかまどの前に行って千恵の手をとり、「はよう顔を洗ってここへおいで」と言って、新しいおしきせを着せて大急ぎで頬紅と口紅を塗って、千恵を奥座敷の端に座らせた。「ついつい忘れておおましたが、去年来ました釜焚きのちべさん、いや千恵でございます。ほら顔を上げて、挨拶しなさい」「明けましておめでとうございます」と千恵が静かに顔をあげた。初めて化粧した千恵の美しさを見て、みんなは一瞬息をのんだ。そして吐き出すように嘆声が流れた。そのとき部屋の奥から大旦那の声がした。「ほぉん、おちにこうほどの別品さんがおったとはのぉ」。その声にみんなの目が若旦那にそそがれた。顔を真っ赤にしてもじもじしている若旦那と千恵を見比べ、みんな心の中でこれから起こる何か芝居の筋書きみたいなものが渦巻いていた。もうこの日はめでたいのかめでたくないのか、分けの分からない年始になった。
 そして明くる日から大奥では、若旦那のお嫁問題で一騒動で、まず千恵の実家に使いをやって、父親に急いで来てもらった。「娘をうちの若にもらえんか」てって大旦那さんが頭を下げさっしゃると、父親は三尺下がって手をついて「旦さんこらえてごしなさい。こげな大店の若さんとはほんに有難いことではございますか、身分が違ってとてもお付き合いができません。もしどげでもとおっしゃるなら、あの子はいりませんけに、どこでもしかるべきお知り合いのお家に差し上げますけん、どうかよいやにして下さいませ」と言った。「そげか、ほんならそげしてごしなはい。大きいお婆が千恵さんを気に入ってのぉ。躾は一切おばあさんが見てやるてって、楽しみにしちょらっしゃるで、里の方にはたっぷり手当てをあげるけん心配せんやに」「だんだん、だんだん、よろしくお願いしますけん」。そいから父親は今度は千恵を女中部屋に呼んで「お前はまあえらいことになったが、そうだどもまあえんで山家の暮らしするよりも、こげな御大家のおかっつぁんで暮らす方がどげん幸せかわからんけん。大ばあさんの言わっしゃる事をよう聞いて辛抱してごせや。家にも旦さんから多分にお手当をいただいたけん、何だい心配いらんけんな」。そげして最後に「そうだどもな、どげしても辛抱できん時には、いつでも戻っておいで。何の遠慮もえらんけんな」と言って、おとっつぁんはその日のうちに帰って行った。千恵は番頭さんの許しをもらって、天神橋の袂まで父親を見送りにいった。手を振りながら遠ざかる父の姿を見ちょっても、涙にはならだった。美しい宍道湖にうっとりしながらも、千恵の心の中は、明日からの若旦那さんとのことや、大おばあさんのことが、嬉しいような恐ろしいような胸騒ぎになって渦巻いちょったげな。


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標準語訳

 正月四日は前の晩から番頭さんが「明日は奥と新年の挨拶しなければならないから、みんな綺麗に化粧して、おしきせも一番上等のを着て、奥座敷でお膳が出るからな。」と告げられた。女中たちは「わあっ」と声をあげた。誰もが若旦那の噂を気にしていた。いつもならただ正月の顔合わせだったが、明日の顔合わせは大旦那と女中との顔合わせだけではなさそうだ。「どうも若旦那は店の誰か気に入った者がいるのじゃないか」と番頭さんがとくと目を光らせているらしい、と女中たちは噂していた。
 正月四日は、形ばかりの仕出しのお膳を前にずらっと顔が揃うと、大番頭さんの挨拶で宴は始められた。大旦那は若い女中さんを見比べていたが、女中頭をそっと呼んで「うちの女ごしはこれだけかえ」と言った。女中頭は「はえ」と答えたが「ちょっと待ってくださいませ」と言って頭数をしらべはじめて、ふと気がついた。「大旦那さんすんません、忘れていました。ちびさんのこと忘れていました。すぐにつれてきますから。」「ちびさんって、あのいつも真っ黒に煤けた手洗桶の子か」「はい」。女中頭は大急ぎでかまどの前に行って千恵の手をとり、「はよう顔を洗ってここへおいで」と言って、新しいおしきせを着せて大急ぎで頬紅と口紅を塗って、千恵を奥座敷の端に座らせた。「ついつい忘れておりましたが、去年来ました釜焚きのちべさん、いや千恵でございます。ほら顔を上げて、挨拶しなさい」「明けましておめでとうございます」と千恵が静かに顔をあげた。初めて化粧した千恵の美しさを見て、みんなは一瞬息をのんだ。そして吐き出すように嘆声が流れた。そのとき部屋の奥から大旦那の声がした。「ほぉん、うちにこれほどの別品さんがおったとはのぉ」。その声にみんなの目が若旦那にそそがれた。顔を真っ赤にしてもじもじしている若旦那と千恵を見比べ、みんな心の中でこれから起こる何か芝居の筋書きみたいなものが渦巻いていた。もうこの日はめでたいのかめでたくないのか、分けの分からない年始になった。
 そして明くる日から大奥では、若旦那のお嫁問題で一騒動で、まず千恵の実家に使いをやって、父親に急いで来てもらった。「娘をうちの若にもらえんか」といって大旦那さんが頭を下げなさると、父親は三尺下がって手をついて「旦さんゆるして下さい。こんな大店の若さんとは本当に有難いことではございますか、身分が違ってとてもお付き合いができません。もしどうしてももとおっしゃるなら、あの子はいりませんから、どこでもしかるべきお知り合いのお家に差し上げますから、どうか良いようにして下さいませ」と言った。「そうか、そうならそうして下さい。大きいお婆が千恵さんを気に入ってのぉ。躾は一切おばあさんが見てやるてって、楽しみにしていらっしゃるので、里の方にはたっぷり手当てあげるから心配しないように」「ありがとう、ありがとう、よろしくお願いしますけん」。そいから父親は今度は千恵を女中部屋に呼んで「お前はまあ大変なことになったが、それだけれどまあ帰って山家の暮らしするよりも、こんな御大家のおかっつぁんで暮らす方がどんなに幸せかわからないから。大ばあさんの言われる事をよく聞いて辛抱してくれよ。家にも旦さんから多分にお手当をいただいたから、何にも心配いらないからな」。そうして最後に「そうだけれど、どうしても辛抱できない時には、いつでも戻っておいで。何の遠慮もいらないからな」と言って、おとっつぁんはその日のうちに帰って行った。千恵は番頭さんの許しをもらって、天神橋の袂まで父親を見送りにいった。手を振りながら遠ざかる父の姿を見ちていても、涙にはならだった。美しい宍道湖にうっとりしながらも、千恵の心の中は、明日からの若旦那さんとのことや、大おばあさんのことが、嬉しいような恐ろしいような胸騒ぎになって渦巻いていたそうだ。