嫁が島物語(終わり)
この年はいつになくとても寒さの厳しい年だった。宍道湖は中の海から日本海につながった汽水湖で、塩分を多く含むため、普通の寒さで湖面が凍ることはほとんどないが、それでも長い歴史の中には凍った宍道湖の上を、人力車に乗って渡った芸者の話が残っているところをみると、明治以降でも何回かは凍ったことがあるとみえる。
この頃、千恵に気軽に声をかけてくれるのは、長旅の商人か番頭さんだけだった。商人は熱い湯をもらうと「やあ、いつもすんません。千恵さんいうたかいなぁ、ああええ気持ちや。それにしても今年は寒いなぁ。宍道湖もとうとう凍ってしもうたやで。宍道の町から真っ直ぐ湖水の上を歩いて来たがな。ほんまやで。千恵さんこの裏の湖岸では、子供ばかりか大人まで大喜びや」今日はそんな話を聞くのは三度目だった。
「宍道湖が凍った。宍道の町まで真っ直ぐに歩いて行ける」信じられないが、三人とも同じ話をしてくれた。千恵は子守りをしながら湖岸に行ってみた。夕暮れ前の湖上にはいっぱい人が出て歩いちょった。そこから宍道の山々はほんの目と鼻の先にあった。ジィッと見ていると宍道の裏山の当たりから、里の婆っちゃが手招きして「千恵、戻ってこいよォ、戻ってこいよォ」と叫んでいた。千恵はいつの間にかお婆の子守唄を口づさんでいた、大粒の涙がボロボロとこぼれた。「婆っちゃ、戻ってもええかえ、戻ってもええかえ。おらぁ坊ちゃまも好きだ。若旦那さんはもっともっと好きだ。大おばあさんだって嫌いじゃねぇ。だどもおらぁ誰にも嫌われてしまった。誰にも相手にしてもらえん」千恵の心はもう決まっていた。
台所を片付けながら荷物をまとめた。お風呂の火を落とす頃には、もういつでもお店を出る用意が出来ていた。女中部屋に戻ると、疲れ切った女中たちは足を踏まれても気が付かぬほどに眠りこけちょった。千恵は押入れの行李の中から弁天様を出して、懐へしっかりとしまい込んで、物置に掛けてあった、みの、かさ、わらぐつをはくと、奥の若旦那の寝所あたりに手を合わせた。「若旦那さんこらえてごしなさい。私は疲れてしまいました。さいなら」。
千恵はあみがさの紐を絞め直すと、湖岸の船着き場から湖水の氷の上に足をおろした。氷の上には雪が積もって、雪道を踏むのとかわりはなかった。二足三足と歩を進めていった。商人たちの言ったことに間違いはなかった。風は冷たかったが、吹雪はやんで宍道あたりの山並みが、この暗い夜中に手に取るように近くに見えた。千恵は真一文字に歩みだした。しかし、寒の真夜中がどんなに厳しいものかを知るはずもなかった。そして、どれだけ進んだか分からないが、突然体中が金縛りにあったみたいに、動かんようになってしまった。千恵は懐の弁天様を握りしめて「婆っちゃ、婆っちゃ」と叫んだ。湖の氷の上に身を横たえた千恵の体に、また無情な吹雪が降り積もっていった。「婆っちゃ、婆っちゃ」弁天様を握りしめていた千恵の手に、暖かいお婆の体がかぶさってきた。「ちえ、千恵、お婆が迎えにきてやったけに、もう心配ねえど。千恵や、安心してねんねせいよ。婆っちゃが子守唄歌ってやるで。
ちえちゃは良い子だ ねんねしな
里の土産に 何もろた
でんでん太鼓にショウの笛
鳴るか 鳴らぬか 吹いてみや
ねんねん寝る子は 良い子だよ
ちえちゃは良い子だ ねんねしな・・・」
吹雪はいつやむとも知れず、千恵の冷たい体の上に降り積もっていった。
めでたく正月行事を終わったはずの回船問屋では、突然の千恵の失踪に沸いていた。女中一人一人の話から大旦那と番頭さんが調べるだけ調べてみたが、何一つ原因が分からないままに大寒が開けた。湖も北風がぬるむと、波もおだやかになった。
そんな頃こんな話が耳に入った。「円成寺山の北側から見下ろすと宍道湖になにやら島が浮いてきている」話を耳にした大番頭は、店に帰るとさっそく若旦那を誘って小舟を出した。円成寺山の真下あたりに浅瀬があって、舟が乗り上げた。舟から降りてみると、なるほど小さな島ができていた。島の真ん中あたりに立った若旦那は番頭さんを手招きした。その足元には、小さなわらぐつと布に包まれた木彫りの弁天様が落ちていた。千恵のものに間違いなかった。若旦那は黙ってそれを拾うと、大切に抱き締めて舟に乗せた。そして声を殺して泣いた。
いま、松江市の本町筋を捜しても回船問屋は跡形もない。木彫りの弁天様のあった島も、それがいつ出来て、誰が嫁が島と名付けたものかを知る者は、誰もいない。
そおで、まっこ