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![]() 更新 2015年5月10日 Masahiro Aikawa
スピリチュアル・オールラウンドワーカー 光のゲートワーカー&アセンションゲートワーカー 心身の進化改善のヒーリング・エネルギーワーカー 心身の健康&進化変容の靈氣マスター
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今現在地球自身はアセンショをし、 日本、そして世界は大きく変わろうとしています。 今までの常識とは違う、全く新しい世界へ移行しようとしています。 現在はその過程の混乱の時期であり、 多くの人々が以前にも増して激しい変化とストレスを感じていることでしょう。 私は皆さんができる限り混乱や苦痛を感じなくてすむように、 安心して変化の過程をたどっていけるように、 そのための様々なワークをさせていただいています。 今までの固定した生き方にとらわれない 本当に自由な新しいエネルギーの中で生きていくための人生の智慧、 また肉体の変化に伴う苦痛への対応などを、 日本各地でレクチャーしています。 未来に不安を持っている方、 変化を前もって体験し、意識的にも肉体的にも変わっていきたいと 思っている方、 あるいは病気でもないのに体の調子がおかしかったり、 土地や住居を不快に感じたり、 その他常識を超えた現象に悩んでいる方。 そういった方は、気軽に私に声をかけてみてください。 私の履歴 私は生まれてから何年かは記憶がない。記憶が初めて現れた時は覚えていますが、そのときは何歳だったか覚えていません。初めての記憶、意識が見えた時は天気がよく初夏のようなさわやかな陽射しの中で水を撒き散らしているところから始まりました。自由に遊びまくっていたようです。なぜか母が急に怒って物置に閉じ込められて怖くて泣きじゃくっていた記憶があります。どんな悪いことをしたのかはまったく記憶にはありません。その時分は家の中か広い庭で遊んでいたと思います。その次の記憶は保育所時代になります。私の住んでいる地域の同級生は男ばかりで4人いました。町の保育所は定員オーバーで別に借りたお寺に通いました。そこで女の子と知り合いましたが、遊んだという記憶はまったくなし!お寺の庭でみんなが元気に走り回って遊んでいても、私はお寺の賽銭箱の横の廊下で眺めていたという記憶しか残っていません。保母さんに元気がない子だね〜というような事をいわれていたような気がします。夏の午後の昼寝の時には厚手の布団を持っていっていたので、みんなより十分に寝て寝坊をして冷やかされたり笑われたりしたことを良く覚えています。それと通学路に怖いおじいさんがいたので4人でからかったら前の道を通れなくなってサボったら親に何かを言われておじいさんのせいにしたら親父達が直談判にいってくれてからは何か負い目というかすまない気持ちでいっぱいになっていたことを思い出しました。そのおじいさんも何年か後には亡くなったようでした。その次の記憶は小学校時代になります。生まれた町は大きく、人も多いんだと気がつき、漫画や勉強も面白いものだと理解をして真面目に過ごしていました。写生大会で特選になり、大廊下に張り出されて一躍名が出た最初でした。近所のお姉さんが私の家に知らせてくれて父や母、祖父が大喜びをしてくれたのをはっきりと覚えています。 小1の時、時計の時間の見方がわからなくてテストで間違って親からたっぷり教え込まれたこともありました。小2から地域外の友達もできて漁師の子、商店街の子などとお付き合いができてきだしたり、ケンカもし始めてきだしたりもこのころからでした。視野も広くなり始めてきていろいろな事をやり始めてきて、記憶に残り始めてきたのもこのころでした。弟や下の妹が生まれた日は天気が良かったことや、まだ農家も機械化されていなくて、田植えの時は牛で耕して、親戚の人が集まって田植えをしていました。山には雉や野ウサギや狸やイノシシなどがたくさんいました。雉のきれいなこと!もう今は見ることはなくなりましたが、きれいな鳥でした。山も刈り取られて杉やヒノキの植林がどんどん進んでいきました。数年後には農家も機械化が進み始めてきました。父は海軍の飛行機の整備士でしたので、地域で一番早く機械化を取り入れて農業を始めてから、後はお金持ちの順に機械化が進んでいきました。家庭の電化商品も、貧乏なのにお金もちなみに早くから揃え、母の負担が軽くなったようで家庭は穏やかで平和な毎日でした。祖父は映画が好きでよく封切りごとに連れて行ってもらっていましたが、途中で寝てしまい時代劇だったということぐらいでまったく覚えていません。父とは母は松竹の恋愛現代劇を時々観にいっていたようです。東映・松竹系の映画館と日活・東宝・洋画系の映画館が大流行でしたが、テレビが普及してきてからは急速に人は減り、高校時代には二件ともなくなりました。東京でテレビ放送が始まってから何年かしてから四国の田舎でもテレビが見え始め、お金持ちから順番に買い始めていったようでした。港の漁協の溜まり場にテレビが置かれたときはたくさんの人が群がって力道山のプロレスや若乃花などの相撲を見ていました。私の生まれた町は当時は人口も多く、商業と漁業で豊かで、都会の流行はいち早く流れ込んでハイカラな町でした。夏の花火も県下でも1,2を争そうほど立派なものでした。テレビも東京オリンピックの3年前には大体普及が終わり、大都市並みの生活をしていて回りの町や村とは大きな格差がありました。鉄道もお金持ちの町ゆえにトンネルをたくさん掘りながらも私たちの町を終点として作られ線名も私の町の名がついています。小学校も児童数は多く私の学年は200人ぐらいでした。私より上の6年生あたりは400人ぐらいいました。全体で2000人近くいたと思います。広い運動場も朝礼の時はいっぱいでした。運動会の時なんか大変です。町民の運動会かと思うほどで、屋台とかいろいろな販売が来ていて、神社の祭りかと思うほどでした。このあたりから楽しいことや馬鹿馬鹿しい事とかいろいろな事を体験していくことになりずる賢くなっていきます。 平和な毎日の中で自由に気持ちよく育ってきていたのが、付き合う人が広くなっていくにしたがい、いろいろな出来事が生じてきて楽しいこと、うれしいこと、いいことが次々と心に反映すると同時に、嫌なこと悔しいこと腹の立つことが現れてきました。この時期はあまりお金持ちでもないのによく可愛がられていい服や本をよく買ってもらったことをよく覚えています。勉強はできていたし、毎日は何となく楽しく過ごしていました。が振り返ってみますと暴力的な悪ではなく、知能犯的な悪の片鱗をよく見せていました。いいことも悪いことも心の奥から湧き出てくるというようなものですが、良いことは照れというかインパクトがないので悪いことをどんどん人に教えて広まっていき、発覚すると人のせいとか年上の人のせいにして巧妙に逃げていた自分がありました。目で見て観察力が鋭く、人がいないときを見計らいお店に行きポケットに欲しいものを入れてから声を出してお店の人を呼び別のものを物を買って帰ることや人でいっぱいの時に行っててんてこ舞いの時に食べてお金を払わないで帰ることなどを丁寧に詳しく教えるとそれを実行する人がいるのです。自分でやって失敗もありました。友達と三人で歩いていると川の向こうに一つ年上の体が大きく喧嘩の強い人がいました。川が隔てているので安心して「○○のアホ−!バ〜カ!」と大声で叫んで帰り、あくる日3人で学校の校庭を歩いているとばったりと出会い慌てて逃げましたが、二人は足が速く私だけが捕まってぼこぼこと殴られる瞬間、嘘泣き!と頭に閃き一発目に痛くもないのに泣きじゃくりました。涙は出ていないのに声は大きく回りの人がこちらを見始めたから解放されて、そのまま何もなかったかのように反対方向に歩いていきました。後で友達が「大丈夫?」と声をかけてきました。「こいつら!」と思いましたが、リレーの選手に選ばれるほど足の速い子たちだったので自分のミスを強く感じていましたのでいまだに覚えています。このようなこととは反対の天使のような子と友達になり、今までとは価値観の違う世界に入ったことがありました。町の子で教育関係の御両親でいわゆる上流階級的な子でした。公平な見方のできる子で単に勉強ができるだけの子ではなかったので、いろいろな事を教えてもらいました。なんでも長続きがしない性質の私だったのですがけっこう長くつきあいました。半年後私が悪態をついて離れていきましたが、私が出会った人の中では最高の人柄の子でした。今でも同窓会で会います。この自分から川遊びが好きになり、川魚をとってきておかずにする事が多くなりました。鮎はすばしこいのでこのときの私には無理でしたのでうなぎや手長えび、ウグイ、ハエなどを取ってきました。庭に大きな池を作ってもらいフナとかいろいろな魚を飼っていました。グミとか柿とか栗とか金柑とかををよく食べました。ミカンはまだあまり普及していませんでした。小学校高学年になって、昭和だと知りました。東京オリンピックは丁度病気になって開会式から閉会式まで全部見ました。この他ジャンボ尾崎の海南高校が選抜で優勝する試合やインターハイで海南高校が全国優勝する試合なども偶然とはいえ見ました。まだまだ小学校時代は続きます。 続く |