これは井口和基博士のエッセイのページです。


2章 私の小中高時代:
私がスポーツから学んだ事

私は小学校3年生の頃から、町内対抗小中学生ソフトボール大会
の選手として出ていた。180cmくらいある長身の中学3年生
たちと、120cmくらいの小3の私がいっしょに混成チームを組ん
でやっていた。このチームは結構強く、町大会で優勝し、市大会
だったか県大会だったか、かなり良い成績を残した。

今もそうだが、山梨では、夏休みは小中学生の男子はソフトボー
ル、女子はキックボールの県大会まであり、夏休みにそれが行わ
れた。これは少年少女の非行防止活動の一つで考え出されたもの
らしいが、やっている子供たちは結構真剣に練習した。早朝と
夕方になると、町中の空き地や学校の校庭でチームを組んで、練
習する。みんな自分の町内の代表になりたくて必死だ。だんだん
チームメンバーが絞られてくると、今度は町内代表として、どっ
かの野球好きのおじさんたちが来て、教えてくれる。そうして、
試合に挑む。地域大会はその町内の代表どうしで戦う。そして、
地域の代表どうしで市大会、県大会を行う訳だ。

小学校5年生で今度は小学校の軟式野球部に入った。小学校6年生
くらいまでやった。これがたぶん1969年、70年ころの話だ。
その頃、私がいた国母小学校(現石田小学校?)にどこからとも
なく転向してきて、秀才君ぶりを発揮してくれたのが、現名大
助教授木村君だ。彼はそれほど野球はうまくなかったが、東京の
方の都会っ子の雰囲気を我々田舎の子供たちに伝えてくれた。
中でも、今で言う参考書をいつも一学年上のを勉強しているのに
たいへん印象付けられた。我々は参考書も何も勉強せず、教科書
を読んでは、適当に自分で考えては答えていた。とにかく、
暇さえあれば、遊んだり、スポーツしていた。

そうこうする内に、小学校に新しくスポーツ少年団サッカーとい
うのが、山梨県にもでき、我々の小学校でもそれに参加すること
になった。そう、これは静岡県で最初に誕生し、数々の名選手を
日本に提供したあのシステムがすぐに隣県の山梨にも波及した
のだ。私はサッカーも好きで、小学校5、6年のころにはすでに
150回ほどボールリフティング(ボールつき)ができたので、
リフティング仲間たちといっしょにその初代チームのディフェンス
の中心として出場した。試合は私の足に当ったボールがキーパー
の股を抜け、1-0で負けたが、サッカーの面白さを公式戦として
はじめて経験した。

スポーツ少年団サッカーはほとんど同時に韮崎市などにも波及し、
韮崎サッカーの基礎を築いた。この恩恵を受けたのが、中田英寿
選手だ。

中学では、最初に野球部に所属した。入学するやいなや入部した。
うわさではその昔甲子園に甲府商業のピッチャーとして出場した
人が監督をしているということで、新入生は期待をしていたも
のだ。また、小学校の県大会で優勝した甲府東小の優勝チームの
メンバーがそっくりそのまま入ってきた。たいへんラッキーで、
私はこのチームなら絶対県大会で優勝できると確信した。しかし、
監督がいつになっても現れず、全く練習をみない。練習を見ている
のは、運動音痴な先輩で、やたらとえばり散らすばかりで、全く
要領を得ない。1年生はみんな先輩上級生たちよりずっとうまかっ
た。何をやっても一枚も二枚も上だった。練習はいわゆるしごき
というやつで、野球の練習はまったく付属のようなもの。まあ、
それでもこんなもんかと最初はみんな結構楽しそうにやっていた。
どんなにしごかれ、虐められても、例えケツバットで尻をぶんな
ぐられても頑張った。ところが、今度いざ試合になった。監督
もこの時には珍しく出てきた。1年生の例の優勝投手はピッチャ
ーで出場、私は1年生の補欠だった。まったくいいところなく、
一回戦で負けた。それから、もっと練習しなくちゃダメだと
私はいつも家で母親に不満を述べる始末。そんな時、心機一転、
進級とともに新しいユニフォームを作ろうと、みんなのお金を
集めて監督に持っていったのだが、いつになってもユニフォーム
が来ない。どうしたのか?と監督の天野先生に聞くと、そんな金も
らったかなと言う始末。そう、その監督が飲み食いに使ってしま
ったのだ。その話が出た頃から、チームの空気ががらっと変った。
例の天才的投手は不良の番長に変身。チームもタバコを吸うわ、
酒は飲むわの典型的な不良の集まり場に変ってしまった。
どうしたもんかと考えたあげく、私はサッカー部に2年生の後半か
ら転向した。

私はサッカーも非常にうまかったので、3年生にはすぐにレギュ
ラー選手になった。3年生の夏にはチームの中心ゴールゲッターに
なっていた。このチームは5つある県大会で、3つ優勝。
うち一つは韮崎東中とPK戦負け。もう一つは韮崎西中と抽選負け、
のみという、甲府南中学の史上最強チームだった。そのチームを率
いたのが、元日本代表候補を経験したこともある、岩田先生だっ
た。この先生は私の父の後輩で、戦時中からだの小さな先生は
いつも人一倍からだの大きかった私の父に作業を免除してもらい、
たいへん恩義を感じていて、私に非常に親切にしてくれた。

このチームの中核メンバーは全部市内の進学校、工業校、商業校
とそれぞれの家庭の事情や進路の都合でばらばらになってしまっ
たが、それぞれの高校の主将になった。私は甲府南高校という
当時、甲府第一高校という進学校と総合選抜を組んだ進学校だっ
た。甲府一校に進んだチームメイトは全部さっぱりサッカーを
止めてしまった。中には非常にうまい選手がいたので、本当に
残念だった。私は高校はサッカーするために行くんだと公言して
いたほど、サッカーのことだけを考えていた。勉強やテストは
ほどほどにした。それでもぎりぎりで400人中395番くらいで
入れたようだ。ここでは、1年生からレギュラーだった。もう
技術の差も体力の差も歴然としていて、私が群を抜いてうまく
秀才君たちのお遊びのレベルでは太刀打ちできなかった。

そうこうしているうちに、日体大出身の生え抜きの選手だった川崎先生
が、監督になった。彼は甲府クラブ(現ヴァンフォーレ甲府)の
コーチ兼選手だった。そんな人が進学校の弱小チームに来たもんだ
から、さあたいへん。暇つぶしでやっていた先輩たちはみんな
練習に耐えきれず、止めて行った。結局我々新入生の11人
きっちりだけが残った。そんなわけで、私がそのチームの主将に
1年生の秋からなった。常時練習に来れるやつは8人。後は
塾があるとかで来れないものもいたが、練習はせいぜい2時間と
決め、短くても良いから参加できるようにした。そして、基本的
には2年生後半にある新人戦だけを目指す。3年生は受験に備え
る。とルールを決めた。

1年生の最初の新人戦の試合はいきなり優勝候補の韮崎高校だっ
た。我々は大方の予想に反し、大接戦を演じ、見事な戦いをした。
相手の横森監督は、このころ就任して間もなく、この後韮崎高の
全盛期を支える監督になった。その監督が、燃えに燃え熱くなる
ほどの大接戦だった。結局、1-0で負けたが、これが我々に自信
を生んだ。

次の年に監督はもう少し年輩だが、国際1級審判員の免許を持って
いたやはり甲府クラブのコーチをしている平林先生が監督になった。
そこに、結構レベルの高い新入生たちが入ってきた。さらに
良かったことに、サッカーどころの神奈川県から引田君という
小柄だが、素晴らしい選手が転向してきた。みんな将来進学希望
だから、練習はきっちり2時間。あとは自主練習。ということで、
なるべく止めるものがでないようにした。また、弱小チームと
いうこともあったが、私の中学時代の経験から、先輩後輩の垣根は
作らず、試合中は呼び捨て、あだな、なんでも結構というルール、
を作った。だから、このチームは本当に楽しいチームだった。

しかし、練習は先生が良かったので、みんなやる気をだした。で
きるだけでると言ってくれたので、我々も真剣に先生の言い付けを
守った。しかし、次第に先生は忙しくなり、面倒見る時間がない
ので、練習方法と一週間の予定をあげるからそれにしたがって練習
しろ。そしてお前がコーチしろということになった。それで、
私は授業中もほとんど毎日の練習を組み立てることばかり考えて
いた。チームの8割は高校からサッカーをはじめたような連中だっ
たが、徐々にうまくなって行った。まったくボールリフティング
できなかったものも、2、3年となるにつれ、みんな100回
くらいはできるようになっていた。当時の私はその中の最高で、
1447回。これは練習時間が来てしょうがなく止めたもの
だった。

このチームは強かった。2年生の新人戦で初のベストフォー。
例の中学時代の私のチームメイトが率いるチームを一つづつ
倒して行った。そして、最後に戦ったのが、例の横森監督率いる
韮崎高だった。このチームの主将が塚田君(前ヴァンフォーレ
甲府監督)だった。この試合は我が母校のホームグラウンドで
行われた。当時は、観客はさっぱりだった。ここで歴史的一戦
が行われた。一進一退が続き、延長線まで0-0。延長前半に私の
キラーパスで1年生が入れ、我々は1-0で勝った。歴史上
進学校が韮崎に勝った初のゲームだった。また、常勝韮崎が
7年ぶりくらいで負けた試合だった。
我々のとった作戦は簡単。今で言う前線からのプレス、オフサイ
ドトラップ。主力選手の執拗なマンマーク。速攻。相手攻撃を
読む。

この試合は大きく新聞に載った。次の準決勝、決勝を控えて、
TVが取材電話取材にきたほど。翌日には自らサッカーマンの丸山校長
先生からお呼びがかかり、次の試合が大事ですよなんて、これま
で一度も見にも来なかった人が言った。

次の準決勝はたいへんな騒ぎだった。土曜日の午後の試合で、
男子生徒など全校の生徒が会場に押し寄せた。これが災いした。
大試合になれていない、選手のほとんどがあがってしまい、こと
ごとくチャンスをつぶしてしまった。6割で優勢だったが、決定力
がなく、おまけに最後列でいちばんがちがちにあがってしまった
ゴールキーパーが3度ミスして、3-0で負けてしまった。結局、
我々に勝った桂高が天才的キーパーの藤井君の活躍で初優勝した。
相手は石和高校だった。彼とは、実は中学時代韮崎市以外の中学
の優秀選手を集めた県強化合宿で仲のいい友人になっていた。
石和高の主将も強化合宿で友だちだった。試合後、なぜか知らない
が止めどもなく涙が溢れてきて、たぶん30分ほど第2試合の横で
泣いていた。何度も止めようと思ったが、止まらなかった。
そこにどこからともなく藤井君が来てなぐさめてくれた。たぶん、
これでサッカーは終わりだなと思ったからだろう。この時程純粋に
涙を流したことは一度もなかった。

3年生になる前の春休みに、山梨に韮崎に勝ったチームがあると
いうので、静岡県から遠征参加の要請がきた。良い経験だからと、
我々のチームも記念に参加した。それは沼津市で行われた。
初戦は地元の沼津工業で4-1で楽勝。新潟の新田高校と2-2。
三島高校と0-1。富士高校と0-2。
この時初めて、全盛期の浦和南高校、そうあの赤き血のイレブン
のモデルになった高校の試合を見た。今の浦和レッズにその面影
をたしかに見ることができる。帰省すると、今度は韮崎高で
練習マッチに呼び出された。それは、この夏に韮崎市で全国高校
総合体育大会のサッカーが開かれることになっていたからだ。
そのための練習マッチだった。そこで我々は雨の後の抜かるんだ
赤土のグランドの上で浜名高校と対戦した。結局、3-0で負けた
が、面白い試合だった。前半の15分はこちらのワンサイドゲーム。
惜しくもチャンスをつぶした時に逆襲で入れられた。
この試合後、監督からお声がかかった。浜名の監督がお前を欲しい
と言ってるぞ。いつでも転校の手配すると言うことだった。
もちろん、私は断わった。

この年の夏、高校総体予選が始まった。我々3年生はもうすでに
引退していた。しかし、予選の段階から、何人か手助けしてくれと
いうことで、私(センターハーフ)と塩野君(右サイドバック)と
志村君(センターフォワード)の3人だけが参加した。ところが、
このチームも意外に強かった。どんどん勝ち上がり、とうとう
準決勝まで勝ち上がった。そこで再び横森監督率いる塚田君の韮崎
と当った。この時はじめて芝生の甲府グランドで戦った。
私は水を得た魚。本当に人生で最高のプレーができた。私の持つ
ボールはだれ一人奪うことができなかった。一進一退が続き、
後半とうとう守りのミスで点を奪われ、0-1で負けた。この時は、
涙は全く流れなかった。すがすがしい気持だった。俺が作った
チームがここまで来たんだという感じだった。

夏には、韮崎高校が全国高校総体に参加した。韮崎は強かった。
決勝で例の浜名高校と対戦し、1-0か2-0で勝った。これが韮崎
の初の全国優勝だった。この時の韮崎のフォワードが山寺選手
だった。彼は甲府東中出身で、南中時代に我々が勝っていたので、
良く知っていた。この後、塚田君はユース代表選考会で最終の25
人くらいまで行ったが、最後の代表には残念ながら行かなかった。

夏の終わりに我々のところに知らせが届いた、秋の国体の代表に
我々から4人選ばれたぞと。私と塩野君、志村君と赤尾君(2年)
だった。特に、私はチームの主将候補らしいぞと周りがいろめ気
だった。我々はみんなで相談しどうするか決めた。プロもなかった
し、進学希望だから、赤尾だけに行ってもらおうと。結局、選考会
に参加したのは、赤尾だけだったが、彼は2年生だという理由
で落選した。彼は志垣太郎さん似のハンサムだった。

今度は受験シーズンが来た。私の監督のところに知らせが来た。
早稲田大学から来いって言っているぞというものだった。その
頃私は物理に進むか、サッカーに進むか迷っていた。もし行くなら
早稲田。物理で行くなら、東工大と。しかし、早稲田くらい
自分の実力で行くからと断わった。そしていざ受験すると早稲田に
落ちてしまった。しかし、運良く理科大、中央大に合格した。
中央もサッカーで行ける可能性もあったが、結局理科大理工に進んだ。

その当時の早稲田は西野監督(前柏レイソル監督)、岡田監督(前
日本代表監督、現コンサドーレサッポロ監督)、加藤監督(前
東京ベルディ監督、現早稲田助教授?)などを擁し、大学最強
チームだった。岡田監督とは同じ学年だったろう。特に長身で
ハンサムな西野選手はいつも女の子に追い掛けされる人気者だっ
た。

この頃から私が進学し、後に阪大基礎工に進学している間、帰郷す
れば、甲府クラブに入らないかと誘われ続けていた。私は物理に転
向したので、ことわっていた。この頃の甲府クラブのライバルが
紫光クラブ(現京都パープルサンガ)や読売クラブ(現東京ベル
ディ)だった。結構良い勝負をしていた。その内、読売クラブに
は御承知のようにラモス選手などがどんどん来て、現在のJ-リーグ
につながる歴史を作った。

今年2001年の夏、子供が幼稚園の近所で遊んでいる間、ボール
リフティングに挑戦した。4001回。およそ2時間。真夏の炎天
下で汗だくで脱水症状になってきたので、途中で止めた。

このたわい無い出来事の中で私の頭脳をよぎったもの、それはこの
青春時代の想い出や出来事、自分や他人の努力、汗や血、人々の
出会いと分かれ。人生の不思議さ。そういったものだった。

そこで学んできたものは、 フェアーであることの大切さ。ルールの大切さ。
努力の大切さ。全力を尽くすことの大切さ。友情の大切さ。基本の大切さ。
そして、何よりも自分の人生を楽しむこと。などなどだ。
あるものは、自分の腰痛などの弱点として記録される。またあるも
のは、自分の胸囲106cmなどの体型に記録される。しかし、
43歳で4001回のボールリフティング。これにすべてが
集約されている。子供たちは私がボールリフティングするとどこ
からともなく集まってくる。これこそ、教育の原点ではないかと
私は感じている。
( 2001年11月8日)


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