当ホームページ編集者より
私が、まだ幼いころ、私の父が松江の劇団「てあとる・へるん」の演出をしており、秦さんは、役者として、活動されていました。まだ、日本が経済成長する以前の頃です。舞台の稽古も我が家の8畳間でした。秦さんを含め、集まって来る劇団員の方々に私たち兄弟3人ずいぶんかわいがって頂いたものです。特に身体障害のある私でも違和感なくかわいがってくださいました。劇団には、予算などほとんどなかったと思います。でも、芝居好きの人たちが集まり、わいわいと練習してる姿を見ていると、幼いながらもかなりの活気を感じておりました。しかし、時代は、今よりのんびりとして、時もゆっくりと進んでいたような気がします。
高校の数学教師をしていた私の父も、次第に忙しくなり、世間も高度成長期に入り、秦さんたちも、芝居などやっていらくなったようです。私も、受験戦争の中に入り、秦さんたちのことは、すっかり忘れておりました。あれは、高校3年の秋頃、両親には図書館へ勉強に行くといって、県の公会堂で開かれた「島根県高校演劇大会」を観に行った時です。秦さんが、なにかの形でスタッフにいらっしゃり、「あっ、洋ちゃん、おわーまでちょっとまっちょーないよ(終わるまでしばらく待って居なさい)」といって大会終了後に近くのレストランでごちそうして下さいました。そのときも確か私の好きな童話・民話の話をして下さったと思います。
それ以来二十数年がたち、私は、ハイテクの中に埋もれ、何でも金に換算する世界に生きていました。先日、郷里の母より、「出雲の語り部・秦信夫」のドキュメンタリービデオが送ってきました。そこに観た物、これぞ私の心の奥でうごめいていた物でした。すなわち、今までは、「インターネットで世界に情報を発信する技術も力も私には十分にある、それを利用して儲けになるものはないか。」・・・・・「こんな儲けばかり考えていてはだめなんだ。しかし、何を発信するか。自分の好きな「出雲の民話」を発信しよう。しかし、いくら好きな民話でも自分一人では材料もなにもない。どうしたらいいのか」・・・・・・
求めていたものが見つかった。「すぐに秦さんに電話しよう。秦さんのこれからの活動の助けにもなる。私の夢もかなえられる。」こう思い立った私は、秦さんに快諾を頂くや、すぐに明くる日(1996.11.04)の飛行機を予約し、日帰りで、出雲空港で約4時間秦さんと奥様と息子様とインターネットの説明をしました。その日、帰るとうれしさのあまり、夜が明けるのも忘れてホームページを作成しました。
そういう経緯で最初の画面が出来(1996.11.06)、秦さん・和子奥様・息子様の邦洋さんの意見を聞きながら、どんどん追加していっている、当ホームページです。どうぞ今後の発展を見守って下さい。